2021.03.28 嵯峨野〜水尾:清和源氏の源流を訪ねる
(その3)




■ 奥嵯峨に見る風葬の痕跡

 


さて竹林を見たのちはいよいよ水尾に向かって行くのだが、途中で化野(あだしの)を経由するので念仏寺に立ち寄っていくことにする。本当は大覚寺にも寄っていきたいのだが時間の都合でカットである。

ここは平安京が開かれて間もないころの嵯峨野を理解するうえで興味深いところだ。ルートとしては京都日吉美山線という古い幹線道路で、別名は愛宕街道という。公式には府道50号線である。




この付近の第一印象といえば、とにかく "道が狭い" の一言に尽きる。路面はツギハギで、ところどころに中央に水路があったのを潰したような痕跡もある。中央に水路を置くのは明治以前の宿場などによく見られた構造だ。ということは、相当に古い街道なのだろう。




やがて化野念仏寺(あだしの・ねんぶつじ)に至る。現在は浄土宗の寺であるが、創建当時は真言宗で、弘仁年間(810-824)弘法大師空海による開基と伝えられる。 これが嵯峨野の何を特徴づけているかといえば、かつて風葬の地であったことの痕跡なのである。

そんな訳で、ここでさきほど話題にした亀山天皇の時代から500年ほど遡って、平安草創期つまり嵯峨野が皇族や貴族の別荘地になる前の世相を見てみよう。



さて風葬とは、死者を野辺に置いて朽ちるに任せる葬り方である。実は律令では葬送令皇都条の中で天皇の住む都の区画内に死者を埋葬することが禁止されており、貴人も庶民も遺体の処置は郊外で行われた。墓を作ることが許されたのは上級貴族のみで、中下級の貴族は土に埋めるだけ、一般庶民は野に遺体を置き去りにして終わり、というのが平安時代草創期の実態であったらしい。

試みに当時の京都の都市人口(推定約10万人)に現代の死亡率を機械的に当てはめ、野に置いた遺体が完全に白骨化するまでの期間(約1年)の半分くらいを腐乱状態と見做して計算すると、常時400〜600体くらいの御遺体が、まあ何というか……マッドでホラーなお姿(?!)で転がっていたことになる。

※図はWikipediaのフリー素材より:竹原春泉画『絵本百物語』より「帷子辻」




ただしマッドでホラーな中にもルールはあり、京都近郊では主な風葬地は3つに集約されていた。ひとつは船岡山北方の蓮台野(れんだいの)、さらに清水寺の南方の鳥部野(とりべの)、そして現在筆者がいる嵯峨西方の化野(あだしの)である。

いずれも人家の少ない丘陵地で、平安京条坊端からの距離はそれぞれ1.5km、1km、5kmで、化野は一番遠かった。都の西側で他の2ヵ所並みの距離感で風葬地を置こうとすると、ちょうど平安京遷都のスポンサー=秦氏の拠点であった太秦付近になってしまうので、そこは避けたような雰囲気を感じるが……はてさて、真実は奈辺にありや。




律令の中に死者を葬る場所を具体的に指定する条文は見当たらない。ただ大化二年(646)に孝徳天皇が勅したと言われる薄葬令のなかに、墓は耕作に向かない空き地(不食之地)につくれとの一文があり、文意としては天皇自身の墓をそうしてくれというものだったのだが、その後につくられた貴人の墳墓の分布をみると概ねこれが踏襲されている。

もっとも、孝徳天皇より百年以上遡った古墳の分布をみても大抵は耕作に向かない丘陵地にあって、言われるまでもなくこういう傾向はあった。農業生産性の微妙な嵯峨野のこれまた奥地の条件の悪い場所=化野も、そのような文脈のなかで用途が定まったように思える。

※写真は国会図書館デジタルコレクションより日本書紀第30巻




寺伝によれば弘仁年間(810-824)、放置された無縁仏を空海が憐れんで骨をあつめ、千体の石仏を埋めて五智山如来寺なる寺を建てたのが念仏寺の初期の姿とされる。

伝説ではやはり弘仁年間に疫病(天然痘)の流行があり、空海は遺体を野に放置するのではなく土葬することを勧めたとも言われる。今風にいえば公衆衛生政策の奔(はし)りのようなものであろうか。




さて境内に足を踏み入れると、果たして石塔、石仏の類が異様に多い。実はこの寺にはこの種の無縁仏供養の石搭などが大量に集められているのである。




その数、およそ8000。なんともはや、凄いところだ。




さてこんな因果な土地に最初に離宮をつくったのは嵯峨天皇(在位809-823)であった。離宮の名は嵯峨院と称し、現在の大覚寺の前身である。ちなみに皇后の嘉智子が建てたのが檀林寺で、さきほど訪れた天龍寺の前身である亀山殿のさらに前身にあたる。化野からの距離感はおよそ1km。……さて、死体ゴロゴロ状態は問題にされたのだろうか。

結論からいえば、おそらく許容範囲内だったのではないか。平安京の内裏の北側にある葬送地=蓮台野が内裏北端から1.5kmくらいであるし、鳥辺野も平安京東端=東京極大路から1km圏だ。当時の法令=養老律令の喪葬令には皇都および道路の側近には死者を埋葬するな、とは書いてあるが距離条項はない。




ちなみに筆者は行き倒れの鹿とか猿とか猫とか、あるいは産卵後の鮭の大量死やらを見たことがあるけれど、意外に腐臭というのは大したことが無い……という所感をもっている。

そもそも山野に住む野生生物は野ざらしで土に還る。腐敗臭=刺激性ガスの空間内拡散とみれば、それは距離の自乗に反比例して急速に薄くなるもので、ちょっと離れればすぐに嗅覚の検知ラインを下回ってしまうものだ。人の生活の場ではたとえば縄文集落と貝塚の位置関係とか、農家の庭先の生ゴミ堆肥場とかに許容できる腐敗物の距離感の相場のようなものが伺えるけれども、総じてそれらは大したスケールではない。

結局のところ、物理的な距離感というよりも宗教的な感情、あるいは呪術的な穢れとか祓いの意識のほうが人は気になるのであり、風葬の地と人の居住地の距離感を決めていたのはそちらの要因が大きいと筆者は思う。そこには役人の出番はなく、宗教家とか卜占の領分の話だ。




その宗教的なモヤモヤの解決を、嵯峨天皇と関係の深かった空海が果たしたとすれば化野念仏寺の存在意義はそれなりにあったといえる。怨霊を恐れて首都移転をやりなおすようなメンタリティを持っているのが当時の皇室や朝廷であるから、こういう土地に離宮を建てるなら、形がどうであれ何らかの呪術的なクリーニングは必要とされた筈なのである。

ついでにいうと、嵯峨院の敷地内にも仏堂(のちの大覚寺の原型)が設けられ、空海は加持祈祷を行っている。ここに祀られたのはいわゆる五大明王で、説明すると長くなるので省略するが東西南北+中央を守護する憤怒の仏であり、鉄壁の防衛呪術が張られた。小説のネタにすると面白そうな話ではある。




■ こんなところにあった源氏の起源



ところでこの嵯峨天皇は、良くも悪くも平安時代の朝廷のありかたの基礎を作ったキーマンである。養老律令施行から時を経て世間の実態と合わなくなってきた部分を、格・式とよばれる補助法令(細則)で補って立て直しを図ったことで知られる。格・式は嵯峨天皇の代の弘仁格式、清和天皇の代の貞観格式、醍醐天皇の代の延喜格式が三代格式として知られており、弘仁格式はその奔りといえる。

この中には墾田永年私財法をゆるゆるに緩和して土地開発を進める(→財政赤字対策)とか、死刑を廃する原則などが盛り込まれた。おかげで全国の開墾は加速して有力貴族の荘園が爆増したのだが、その一方で朝廷の収入は伸び悩み、さらにこの後約300年間は死刑執行がなく悪徳貴族や役人がやりたい放題という、近代ヨーロッパもびっくりのフリーダムでリベラルな時代となった。

書き始めると長くなるので詳細は省略するが、要するに財政難を解消しようとして導入した便法が裏目に出て貴族の荘園ばかりが増えまくり、朝廷の歳入は先細って貧乏一直線……という動きが加速するのが、このあたりである。




その財政難に対応する切り詰め策のひとつとして、増えすぎた皇族の整理を行う臣籍降下がここでも行われた。このとき臣籍に降りた一族には史上初めて "源" の姓が与えられた。実はこれが源氏の始まりである。……いやぁ、ようやく源氏が出てきたな!(笑)




余談ながら嵯峨天皇はあちらとかそちらの具合がとても…その…まあ、お盛んで(笑)、皇子皇女がなんと49人もいた。兄弟姉妹だけでサッカーなら4チーム、野球なら5チームが編成できて補欠要員までいる大所帯で、このうち32人が臣籍降下しているのだから何ともダイナミックである。もうすこし自重していればこんな大ナタでぶったぎるような措置にはならなかっただろうに、帝の荒ぶる下半身を止める奴はいなかったのか(笑)




この種牛の繁殖農家みたいな状況は、実は奈良時代に天武天皇の皇統が後継者不足で断絶した反省として、天智天皇の皇統を継いだ桓武天皇の代に後宮が整備されたことによる。

桓武帝自身も34人の皇子皇女を儲けているので繁殖ファーム(なんだその言い草はw)としては成功したといえるのだが、まるで第三世界の人口爆発みたいな状況になったのでやはり臣籍降下が行われた。ちなみに桓武天皇から分岐した系統(この時は皇子ではなく孫から臣籍降下している)には "平" の姓が与えられ、これが平氏の始まりとなっている。

この平安時代最初期の2代の天皇の下半身事情により、のちの日本史をドライブしていく二大武家勢力、源氏と平氏が誕生した。しかも貴種として残った本家皇統ではなく、傍流として切り捨てられた側である源氏、平氏のほうが雑草の強さを身に着けて後世でのし上がっていくのだから、歴史とはなんとも面白い。




ただ嵯峨天皇から分岐した第一波の源氏(嵯峨源氏)は、賜姓(しせい)直後の七光りボーナスタイムが過ぎたのちはあまりぱっとした活躍を見せないままモブキャラ化してしまった。日本史に名を遺す名門となったのはのちに触れる清和源氏の家系で、その登場まではもうあと半世紀ほど待たねばならない。



 

■ 変遷する天皇の隠居先




ところでネズミを超越する繁殖力を持つ男(…さすがに二つ名としては微妙だなw)嵯峨天皇がその後どうなったかというと、次代の淳和天皇に譲位して上皇となり、冷然院(冷泉院)に隠居することとなった。冷然院はもともと父帝=桓武天皇の離宮として造られた寺で、現在の二条城付近の一等地にあった。桓武天皇以降、代々の天皇は上皇となったのちは費用をかけて自前の離宮をつくるのではなく、ここに隠居することが慣例となる。

……が、まもなくその淳和天皇が息子の仁明天皇に譲位して引退すると、嵯峨天皇(上皇)は玉突き式に押し出されてしまう。 移った先は、この嵯峨野であった。




さきに述べたように嵯峨野はもともと渡来系の秦氏の地盤である。

映画の撮影所で有名な太秦(うずまさ)のあたりが本拠地であったとされ、のちに藤原氏が台頭して朝廷の公式記録からすっかり存在を消されてしまった感があるけれど、平安初期の頃にはまだ嵯峨野〜伏見のあたりは秦氏の勢力圏で、空海系の寺院建立や嵯峨天皇の隠居場所に便宜を図っていたのではないかと筆者は想像している。




ところで源氏の話と朝廷の財政難と天皇の隠居先の話が同時進行でわかりくくなってきたかもしれない。実はぜんぶ繋がっているのだが、ややこしいのでここでちょっと整理をしておきたい。ここでは平安遷都以降、天皇の権力も財力も縮小していった流れを、その隠居先の切り口で見たらどうなるかという話をしてみよう。

まず平安京を遷都した桓武天皇は、在位中に崩御しているのでいわゆる隠居はしていないのだが、存命中に内裏に隣接した一等地に離宮=@冷然院(冷泉院)を建てた。これがのちに代々の天皇が譲位して上皇になってからまず入る隠居先となっていく。桓武天皇の皇子である嵯峨天皇も、上皇になってまずここに入った。

……が、嵯峨上皇が帝位を譲った淳和天皇が、わずか10年で次代の仁明天皇に帝位を譲って上皇になってしまったので、場所を譲って出ていかざるを得なくなった。




そこで予算もないので、低開発地の上にあまり縁起のよろしくなかった嵯峨野に隠居先を設けることとなったらしい。これがA嵯峨院(のちの大覚寺)であり、同時期に皇后の橘嘉智子(檀林皇后)がB檀林寺(のちの亀山殿、天龍寺)を建てている。

くりかえしになるが嵯峨野(というかざっくり平安京の西側一帯)は秦氏の本拠地である。ここはすくなくとも藤原氏のテリトリーではなく、土地を提供したのは秦氏であっただろう。

※藤原氏と秦氏は婚姻関係もあり敵対はしていないが、ブイブイ言わせていたのは圧倒的に藤原(北家)氏の方であった。この間、嵯峨天皇に取り立てられた藤原冬嗣は4階級特進というミラクル出世で最終的に左大臣に上り藤原北家の地盤を盤石としていたりする。その中で秦氏は地味に皇室のアシストを続けておりなんとも義理堅い。




そして今回のテーマ(まだ出てこない)である清和源氏の粗、清和天皇はそれよりさらに山奥の水尾に隠棲し、C水尾山寺を建立した。……といっても、潤沢な予算がついた訳ではなく、伝承では村人の協力で建築を始めたものの、その完成を待たず清和天皇(上皇)は崩御している。




次いで、光孝天皇、宇多天皇がD仁和寺を、円融天皇がE円融寺を建てて隠居した。こちらは内裏北部の蓮台野にほど近い山間の傾斜地で、やはり農地には向かない土地を選んでいる。

ここまでで、平安遷都から200年である。正直なところ200年で6ヵ所とは随分慎ましい気がする。ちなみにC水尾山寺はあまりにも山奥過ぎて清和天皇以外に入った天皇はいない。一番人気はもちろん超一等地の@冷泉院であった。

そして驚くべきことに、天皇が勅願して作った離宮は、平安時代どころか鎌倉時代いっぱい(=期間にして500年!!)まで見てもこれで打ち止めなのである。それらは皆、京都の条坊の西側、秦氏の勢力圏であった。ちなみに秦氏の名は平安中期には政治史にはみえなくなり、松尾大社、伏見稲荷社の神職、雅楽師などにわずかに痕跡を残すのみとなる。(のちに戦国武将で子孫を自称した者はいるが、中央では見かけなくなる)




ここで 「あれ?でも都の東側にも離宮ってなかったっけ……」 と思った方は鋭い。たしかにE以降、鎌倉時代末期までに離宮となった物件として F法勝寺、G鳥羽離宮、H法住寺、I押小路東洞院、J持明院がある。

しかしこれらはみな藤原氏が所有していた寺院を提供したもの(言い方は微妙だがまあ中古物件)で、天皇の意思(+予算)で新築されたものではない。分布域も平安京東側の鴨川流域に移動し、ちょうど西暦1000年頃=源氏物語の創作年代を境に、スポンサーの交代があったことが伺える。ちなみにこの頃権勢を揮っていたのが 「この世をば我が世とぞ思ふ」 の歌で有名な藤原道長である。

要するに平安時代も中盤になってくると、もう財力も権力も天皇の外戚としてガッツリと食い込んだ藤原氏が握っていて、天皇自身は空気のような存在感になり、自分の隠居先を自分で用意することもできなくなっていた。それがこんな切り口でも明瞭にうかびあがってくる。事ほど然様に、時代は大きく変遷していったわけだ。


(つづく)