2015.01.18 南山御蔵入領と百姓一揆の記憶:前編(その1)




山王峠のあっち側を周遊して参りました (´・ω・`)ノ



さて今回は、南会津と下野の境界になっている山王峠の周辺をゆるゆると巡ってレポートしてみたい。那須野ヶ原からR400を東進して塩原温泉を経由し上三依に抜けると、現在では日光市の版図となっている旧藤原町のエリアに至る。ここから北側は会津の文化圏に入り、栃木県内では屈指の、そして福島県内ではやや並み(?^^;)具合の豪雪地帯になっている。

今回このコースを選んだのは、第一には雪景色をゆったりと堪能してみたいという写真的な動機によるものだが、せっかくの機会なので南会津の近世史でほんとんど唯一ではないかと思われるメジャーな事件、南山御蔵入騒動についても言及をしてみようと思う。これは今から300年ほど昔に起こった大規模な百姓一揆で、その勃発は享保五年(1720)の冬、ちょうど今頃の雪深い季節であった。

この一揆は結局鎮圧されて首謀者は死罪、というオチになってしまったのだが、周辺事情を探っていくと幕政の大きな転換点の中で起こった構造的な事件とも捉えられ、江戸中期の財政政策と民政を眺めるうえでなかなかに興味深いのである。また2013年の新湯温泉の記事の最後でちょこっと触れた仏僧:如活の活躍も同時期なので、併せて触れてみたいと思う。



 

■ 予備知識としての南山御蔵入領




さて南山御蔵入領とは、もともと会津藩の版図であった福島県南西部を中心とするおよそ35万ヘクタールに及ぶ広大な地域である。その面積は現在の鳥取県や奈良県、埼玉県に匹敵し、一部は下野国(栃木県)側にも及んで現在の五十里ダムのあたりまでが含まれていた。

会津藩は関ヶ原の合戦の結果をうけて上杉景勝が米沢に減封となった後に、蒲生秀行のもとで成立した(上杉時代を含める考え方もあるが、ここではまあ気にしない ^^;)。その後加藤嘉明、保科正之と40年余りの間に領家を三度替え、このうち加藤家の時代にお家騒動 (→領主と家老が火砲を交えて私戦に及んだ) を理由にその領地の南半分が幕府に召し上げられた。こうして成立したのが南山御蔵入領である。

会津盆地と越後の津川地方を版図とした保科家時代の会津藩領が二十三万石なのに対し、山がちである南山御蔵入領は面積がほぼ同等ながら石高は五万石ほどしかなく、豪雪地帯ということもあってそれほどおいしい領地とは言い難かった。それでも幕府がここを押さえたのは、奥州への蓋という地理的要因にくわえ、いくらか金/銀/銅が産出されたという鉱山的価値による。

※余談になるが幕府は同時期に白河藩に対しても譜代大名である榊原家、本多家を相次いで配し、のち徳川ファミリーである松平家(1681~)を入れて奥州に蓋をする形を作り上げている。福島県浜通りには磐城平藩に鳥居忠政を配してやはり蓋をしようとした。このあたり、なかなかに強(したた)かなパズルゲームが行われていたように思う(^^;)



 

■ まずは那須野ヶ原からゆるゆると




さて前置きはそのくらいにして、さっそく出かけてみよう。まずはいつものごとくJR那須塩原駅を起点にゆるゆると那須野ヶ原を進んでいく。この季節の典型的な風景として雪雲が見えているが、山を越えて平野部にまでかかってくることはほとんどない。




今回は南山御蔵入領の下野側=三依盆地を経由して山王峠を目指したいので、塩原渓谷を抜けていくコースを行く。関谷から尾頭峠を越えて上三依に至る15kmほどの区間がちょうど雪のグラデーションのようになっているので、まずはそれを眺めながら走ってみよう。




塩原渓谷に入ったばかりのところには、積雪はほとんどない。これはが石トンネル付近。




トンネルを過ぎると山肌にぼちぼち雪の白さが見えてきた。




温泉街に至ると積雪は2~3cmほどになる。本日は温泉に入浴するわけではないので、混雑する中心街は避けてビジターセンターを経由していく。




中塩原あたりまで進んでくると積雪は5~10cmほどになり、世界が白一色になった。道路もシャーベット状~一部凍結状態となり、ノーマルタイヤのクルマではこれ以上奥地に行くのはお勧めできない。




■ 尾頭峠




小滝を過ぎて、箒川の水も沢水程度となるころ、R400はヘアピンカーブ部にさしかかる。旧道はもう少し崖沿いを這うように伸びていたのだが現在では通行止めになっていて、尾頭トンネルに向かうルートは高架橋でムリヤリ気味に引っ張られている。




ちなみにトンネル開通の功労者として、ここには故・渡辺美智雄代議士の銅像が立っているのだが……どうやら、今回もすっかり雪に埋もれているようだな(^^;)




高架橋を登ると、いよいよ尾頭峠がみえてくる。本格的な雪国はあの向こう側で、下野文化圏と会津文化圏の境界も、あそこにある。




土地の境界というのは面白いもので、西洋人なら緯度/経度でスパっと直線を引いたりするものだが日本人は自然国境主義で山の稜線とか川を基準に線引きをすることが多い。

塩原の山々はこうして3D図で俯瞰して見ると一見、線引きの難しそうな地形に見えるけれども、実はこういう起伏の込み入ったエリアでも、ある単純な原理に基づいて分割されている。それは河川の水系単位によるもので、ここでは塩原盆地(宇都宮領)と南山御蔵入領(幕府直轄地)は分水嶺である尾頭峠を境界にしている。奥に見える山王峠は律令国としての下野国と陸奥国の境界にあたっているが、やはり分水嶺が境界である。




筆者としては本来、その分水嶺の尾根筋を越えていきたいところなのだが(^^;)、実際の峠道は登山道みたいなルートになっていてクルマでは通り抜けられない。…そんな訳で、ここはまあ、近代土木の成果=尾頭トンネルを素直に抜けていくこととしよう。



 

■ 上三依




さてトンネルを抜けると旧幕府領のエリア=上三依(かみみより)に達する。ここの本来のメイン回廊はR120で、会津田島方面から五十里を経て今市方面に抜けている。昔の呼び名は "会津西街道" という。

筆者が抜けてきたトンネルの直上を越えていく旧尾頭道は、その脇街道として塩原~高原経由のルートを形成していた。旧道が交錯するところにちょうど熊野堂があり、往時はこれが道標のような役割をしていたらしい。



余談になるが南山御蔵入騒動の起こった享保五年頃は、日光地震による葛老山の崩壊で第一次五十里湖が出現し、会津西街道は湖底に沈んでいる。会津盆地から江戸への回米の輸送は、船で湖面を越えるか、塩原経由で下流域の藤原までバイパスするか、三斗小屋経由の会津中街道を行くかという選択肢になり、時期によって多少の変動はあるのだがおおよそ会津西街道の五十里湖経由がメインルートになっていた。

一般にこの街道は会津から江戸への廻米ルートとして知られている。実際には大量のコメをドカドカと運ぶにはあまりにも手間がかかるので、たびたび廻米は中止になって金納で済ませていたりするのだが、街道の整備は幕府からの 「コメもってこい!」 の指令の時期に行われているのでまあ四捨五入して "廻米の街道" という認識で間違ってはいない。

メインルートとなっていた会津西街道は、他国領をなるべく通らずに徳川ファミリーのテリトリーを縫うようにつながっており、廻米には都合がよかった。スタート地点である会津藩は親藩であるし、南山御蔵入領は天領、その南の日光山領(=東照宮)は徳川の実質的な保護領で、ここからわずかに宇都宮藩の私領を横切るだけで鹿沼以南の徳川本領に入ることができたからである。こういうルートでは領内農民に賦役として輸送労働を課せば、アマゾンのプライムサービスの如く送料はかぎりなくゼロで江戸城下にコメが届く。

ただしこれは幕府にとっては都合のよいシステムであったが、駆り出される農民側には極めて不評で、たびたび廻米が中止になったのもそのあたりに事情がある。




さて脱線話はほどほどに外を見れば、峠を越えた途端に積雪深度がいきなり上昇した。




目測でざっと70~80cmくらいだろうか。越後湯沢や只見のような2~3mにも及ぶ豪雪ではないけれども、一山超えただけですっかり様相が変わってしまっている。このくらい積もっていればまあ雪国の称号を名乗っても差し支えはないだろう。冬の会津圏を象徴する、白一色に染まった世界である。




雪国の定義というのは非常に曖昧なものだが、筆者的にはざっくりと "根雪の残る地域" くらいに考えている。根雪とはいったん積もった雪が融けずに春までずっと残り続けるもので、これが数十cmにもなると冬季の農作業はできなくなり、太平洋側の乾燥した地方のように二毛作で収入を得ることは難しい。雪国の本質的な厳しさというのは、こういう農業生産性の低さにある。




それはともかく上三依での足跡としては、とりあえず上三依塩原温泉口駅をチェックしておこう。今回は基本的に北上していく旅であるのであまり長居はしないでおく。




とはいえ何も紹介しないのでは寂しいので、ネタ的に三角屋根の真下の絵を載せてみよう(^^;)。駅舎内の解説文によると屋根の真下はピラミッドパワー満載のパワースポットらしいのだが…はて、筆者は感度が鈍いのか宇宙からの電波はキャッチできず(笑)




ということで、コーヒー休憩程度に留めて先を急ごう。




ここからは、山王峠を目指して北上していく。…おっと、余談ばかり書いているうちに1ページ費やしてしまったではないか(笑) 次項以降は、もう少し真面目に書いていこう(^^;)

<つづく>