2007.05.05 続・蟇沼用水を訪ねる(その2)







分岐後の蟇沼用水は住宅地の中でよどんでた。ここは流量調整のためか水門が絞られているようだ。




水は濁り野菜クズなどが浮かんでいて、どうやら生活用水が流し放題・・・という印象である。たった1km上流ではあんなに綺麗な流れだったのに、これを見たら水質に気を使っている上流域の人々が嘆くだろうなぁ(´д`)




水門を過ぎてふたたび流れ出す蟇沼用水。しかしここでも周辺の排水が流れ込み、もはや飲用水路の面影はない。




レストラン「からす亭」前で、後述する水元神社の湧き水路線と合流しクランク状に曲がる。




さらに分岐して一方はR400沿いの暗渠に、もう一方は日赤(大田原赤十字病院)の地下を貫通していく。うーん、どれが本線か非常にわかりにくくなってきた。




ちょうど良い具合に、日赤病院近くに地元商店街の案内図があった。これはとても参考になる略図だ。市販のいわゆる 「道路地図」 だとよほど大きくない限り水路の記述はいい加減で、それは国土地理院の地図でも似たようなものなのである(航空写真起こしだと暗渠などは見えなくて当然ともいえるのだけれど ^^;)。




さて紫塚周辺のわかりにくい用水路網は、ぐるぐる回ってみると↑こんな状況のようである。蟇沼用水は乃木清水で多少のドーピングをされて石林→紫塚と抜けた後、3路線に分岐している。ひとつは神明町方面に行く流れ、ひとつはR400沿いに金灯篭方面に行く流れ、そして日赤病院下を抜けて(というか病院が用水をまたいだ格好で建設されたのだろうけど)城山方面に向かう流れである。

神明町ルートは西那須野~大田原境界付近からR400沿いに下る水流(下流で鹿島川と名がつく)に合流して、料亭岩井屋の敷地内を抜けて愛宕神社、忍精寺、不退寺をかすめて下流で蛇尾川に注いでいる。金灯篭ルートは正方寺、洞泉院をかすめて下流でやはり鹿島川に注ぐ。全部実際にたどってみたのだけれど、すべてを表記するとわかりにくくなるのでここでは省略しよう。今回のレポートは大田原城下に引かれた用水という文脈で蟇沼用水を追っているので、やはり城山ルートをメインにしたい。

ところで、↑の水路をみると、蟇沼用水は大田原城下では水源神社から続く水路に合流する形で水を引いた形跡がある。そこでちょっと寄り道してこの神社を確認しておこう。




水元神社。由緒不明。建立時代不詳。祭神不詳。・・・なんだよそれ!とツッコまないで頂きたい。一応ちょっとした公園と公民館が併設されているのだけれど、由緒書のようなものがないのである。



お堂の脇に立っている 「水源神」 の碑。記紀神話系の神ではなく、もっと素朴に水源そのものを神としたものらしい。




境内は路面から1.5mほど掘り下げた窪地になっており、さらに1mほど掘り下げたところで地下水が湧き出していた。

おい( ̄▽ ̄)

諸説所論あるかもしれないが、ここはツッコミどころなので正しくツッコんでおこう。

お前らの城下にはちゃんと湧き水があるだろーが!!

井戸を掘れば水は出る、自然の湧き水もある・・・こんな恵まれた場所にいて、大田原の殿様はなにゆえ上流のお百姓さんが自費で懸命に引いた用水を 「飲用以外使用禁止」 にして独占したんだろう。 これではどう見ても北斗の拳に出てくる悪役の所業にみえるぞ。




さて善悪論はともかく、湧き水の水路を追ってみる。ここは湧水点から200m、大田原土木事務所付近。水路は2手に別れ、一方はからす亭付近で蟇沼用水金灯篭分水路(仮^^;)に合流する。もう一方は日赤病院裏を流れ下っていく。




日赤病院の裏側駐車場の南端付近で、病院地下を抜けてきた蟇沼用水(奥)と水元神社湧き水(手前)が再合流する。ややこしい流れだが、これで城山方面に向かう流れの水量を確保・・・ということになるのだろうか。印象としては、そもそもあった湧き水水路に蟇沼用水を引き込んだという感じにみえる。




合体水路となった蟇沼用水(・・・まだ蟇沼用水の名称で良いのか?^^;) は合流点から500mほど下って光真寺の門前を通過する。大田原氏の菩提寺である。




境内には寺を建立した13代大田原資清の像があった。大田原氏の歴史を調べてみると、よく言えば智謀に優れた家系、悪くいえば謀略姦計のペテン師(笑)ということで、実に地味~な戦国武将といえる。しかし秀吉の小田原攻め、関ヶ原、そして戊辰戦争など要所要所での判断力は的確で、それゆえ小勢力ながら長く存続し得たともいえる。(ちなみに戦国期の所領がほぼそのまま、かつ国替えなしで明治維新まで存続した領主というのは極めて珍しい)

その大田原氏が蟇沼用水を城下まで引いたのは1771年、22代友清(ともきよ)の時代である。どのような背景で工事が行われたのか定かではないが、筆者のイメージははやっぱり北斗の拳の悪役面で 「この水は俺達がもらったぁ~っ!」 と叫ぶ姿しか思い浮かばないのであった(笑)




光真寺を過ぎると用水路は寺町のくねくねとした路地の間を縫って流れる。




まもなく旧奥州街道を横断。おお消防署の火の見櫓が見える。あそこは大田原城の西端、馬場のあったあたりだ。なるほど水の流れを追って大田原城までたどりつけることが確認できたヽ(´ー`)ノ

ちなみに現在のR461は金灯篭交差点から蛇尾橋まで一直線だが、かつての奥州街道は大田原城を迂回するように100mほど北西方向にコの字型に伸びていた。蟇沼用水+水元清水の用水路から引いた水は古地図を見る限りこのあたりで大田原城の堀へと引水されていたようである。蟇沼用水堀自身も、貧弱ながら城の外堀として機能するような位置関係で城郭の南側(北側は蛇尾川が天然の堀となっている)を囲むように流れている。




蟇沼用水(手前)から城山を望む。ここから城のあった山までは150mほどか。戦国~江戸期はこの付近は武家屋敷が並んでいたと思われる。また用水の水は大田原城の堀を通じて蛇尾川に落とされていたようだけれど、現在では堀は埋立てられて宅地となっており往時の状況はよくわからない。旧蟇沼用水のみが、排水路に姿を変えて大田原城の堀に通じる水系の位置関係を示しているようだ。




さてこれまでの追跡結果をまとめると、大田原城付近の蟇沼用水+水元神社水系の流れは↑このような感じになりそうだ。神社仏閣と水の流れは不思議と一致しているような気がするなぁ。ただし用水は現在では中小の湧き水や排水路網のなかに埋もれつつあり、一本道でもないので 「どこまでを蟇沼用水の末端としてみなしてよいか」 は議論の余地のあるところだろう。

※素人調査なので多少の間違い/勘違いはご勘弁願います(^^;)




■用水の終端




大田原城を過ぎた後の蟇沼用水がどうなっているかというと、城のすぐ南側にある大田原女子高第二グラウンド付近で2分し、一方は蛇尾川に落ちており、もう一方は上流で分岐した金灯篭水系と再合流してR400沿いを下っていく。周辺の雑多な排水路や農業用水路と習合しながら大田原城址の約2km南、大田原市清掃センター脇で蛇尾川の支流のひとつである鹿島川と合流して消滅していた。なお鹿島川は上流で分岐した蟇沼用水の神明町分水系の下流であり、結局ここで蟇沼用水は蛇尾川水系に習合されていくのである。

写真は清掃センター脇からみる鹿島川(奥の茂みのあたり)に注ぐ蟇沼用水。水源から20km以上…那須野最古の用水堀は人の手により地表を走り、上流域で地中にしみこんだ本来の水の流れとここでふたたび出会う。さらば蟇沼用水、ばはは~い♪ヽ(´ー`)ノ

<完>





■あとがき


那須野最古の用水ということで走り抜けてみましたが、蟇沼用水はたった20kmでも驚くほど様相の変わる水系です。飲用水路と言われてはおりますが、開削当初は当然農業用水の使用もある程度織り込んでいたことでしょう。上流域、とくに蟇沼集落の立地と歴史をみると水に関してはもう凄惨そのもので、まさに水=命なわけです。

しかし、それは開削から約170年後の江戸中期、大田原の殿様に召し上げられてしまいます。水の豊かな(今回のルートでも乃木清水、水元神社などの湧き水があり、井戸を掘れば数mで水が得られる)大田原が、なにゆえ水に窮する接骨木以北の村々を犠牲にして貴重な水源を押さえたのか? 無理矢理考えると、①城の堀の水位を保つのに水元神社の湧き水では不足した、②元禄以降人口が急増し都市用水が不足した(井戸掘れよ) ・・・くらいしか思いつかないのですが、今もって謎は深いままです。

那須塩原市⇔大田原市の水に対する考え方の違いも非常に対照的でした。水源から石林あたりまでは用水沿線の住民は驚くほど水を大切にしていて、生活廃水を流すこともほとんどないのですが、大田原市内に入ったとたんに下水と一緒の扱いになって家庭排水などが流し放題になってしまうのです。明らかに水の豊かな地域のほうが水を粗末に扱っている訳です。

都市化という点では西那須野市街も大田原市街も規模は似たようなものなのに、こうも違いがでる・・・。やはり、水利行政や住民意識のもの凄~く基本的なところで認識の差があるような気がします。

・・・おっといけない、まるで変な環境団体の主張のようになってしまいました(^^;)。まあ筆者としては旅と写真のサイトの立場から 「絵として美しくない光景はダメぴょん!ヽ(`◇´)ノ」 とだけ述べておきましょうかね♪