2009.12.13 足利学校 (その1)




日本最古の学府の痕跡を眺めに、足利庄を訪ねて参りましたヽ(´ー`)ノ



さて今回は足利を訪ねてみることにする。同じ下野国にありながら足利は県域南西端のエッジぎりぎりに位置する町であり、筆者の拠点である那須から訪れるのにはちょっと遠い。しかし熊谷の秘密基地(^^;)を起点にすれば非常に安直に行けてしまう距離なのである。

言わずもがなではあるけれど、ここは室町幕府を開いた足利氏の拠点で、見所は盛りだくさんにある。ただし歴史の蓄積がありすぎるのも問題で、全部をいっぺんに語ろうとすると破綻するのは目に見えている。…そこで今回は、足利学校跡に絞って小さくレポートしてみたい。




ところで筆者の秘密基地のある熊谷市だが、その風景はご覧の通りで典型的な住宅密集地である。掘り起こせばいろいろ情報は出てくるのだろうけれど、どうにも特徴のない町でちょっと花鳥風月な散策を愉しむような余地には乏しい。
人文は古そうなのでまあ追い追い発掘して行きたところだが…何か出るのかなぁ。




そんな熊谷を出発して、R407を北上していく。この道は熊谷から太田市を経由してほぼ一直線で足利に至る便利なルートだ。江戸期には中山道(現:R17)から分岐して日光へ向かうバイパスのような役目をしており、往時は杉並木もあったようなのだが現在ではすっかり伐採されてしまっている。




やがて太田市を通過し渡良瀬川が見えてくると、足利の市街地である。クルマで行くと割とあっさり到達してしまうので、ちょっと拍子抜けしてしまう。




■足利荘について




さてあまりにもあっさりと到達してしまったので心の準備が整わない(笑) そんな次第で目的地に入る前に多少の予備知識を語っておきたい。

足利庄という呼び名は荘園の名であり平安時代後期に成立したものである。荘園となる以前の足利は東山道の駅としての記述が続日本紀に見え、奈良時代初期の頃には拓かれていたらしい。その地勢は↑上図のように南面を渡良瀬川、東西北面を山地が囲む天然の城砦となっている。室町幕府を開いた足利氏(※)はここを拠点とした。

※足利氏には藤原氏系の家系もあるのだが、ややこしいのでここでは省略する




足利荘の発足は保延3年(1137)、源義国が鳥羽上皇(※)に墾田を寄進したことに始まる。どうして苦労して開墾した土地を他人に寄進してしまうのかといえば、これは当時流行した 「節税対策」 の一環であったらしい。

中央の有力貴族や巨大寺院の荘園には不輸/不入の権があり実質的に非課税というのが当時の常識である。そこで形式上の寄進をしてピンハネ料を払った方が真面目に税を収めるより安上がりで済むという抜け道がつくられた。名義を中央の有力者にしておけばその権勢を借りて他の無法者から土地を侵されるのを防ぐ効果も期待できる。開拓農民である武士層の土地所有権が曖昧だった平安時代には、これが自らの土地を守る上で有効な方法論だったのである。

※足利荘の正式な寄進先は鳥羽上皇の建立した安楽寿院(仏教寺院)である。この寺院には全国から土地の寄進があり皇室の経済基盤となっていた。朝廷側からみると足利荘は 「皇室御領」 ということになり、おいそれとは手を出せなかった。




しかしやがて武家政権の確立した鎌倉時代になると、各地に幕府の任命する地頭が配置され、荘園は形式的には存続しているものの実質的な支配権は武士側が握るようになっていく。鎌倉政権下では恩賞もまた土地で与えられ、よく言われる 「一所懸命」 的な武士の行動基準のようなものが形成されていく。

そしてこの頃から武士の名乗る苗字は源平藤橘などの氏ではなく経済基盤を置くの所領の地名に変わっていった。さきの源義国の例でいえば、息子のうち足利を領した義康は足利姓を、また新田(現在の群馬県太田市)を領した義重は新田姓を名乗った。のちに足利将軍家に繋がる足利氏、また徳川将軍家に繋がる新田氏(※)のルーツはここにあり、こうしてみると関東…それも渡良瀬川を挟んだ両毛地域というのは非常に奥深いところなのである。

※徳川家の「源氏の血統」は怪しいところもあるのだが、公式には新田氏系の源氏ということになっている。関連項目として喜連川の項も参照されたい(^^;)


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さて予備知識を話したところで話を戻そう。足利学校には直接クルマの乗り入れは出来ないようで、筆者は隣接する観光駐車場に入った。

案内書を配布しているという太平記舘(土産物屋)に入ると、NHKドラマ 「太平記」 で俳優の真田浩之氏が着用したという鎧が展示してあった。時代的には鎌倉幕府が倒れ、建武新政を経て室町幕府が開かれるまでの話で内容は全然 "太平" ではないのだが、派手な合戦が相次ぐので一般人にはこちらのほうがウケがいい。

…が、足利尊氏について語りだすとやはり長くなるので、今回はカット。




案内所にはちょうど良い具合の観光ポスターが貼ってあった。筆者がクルマを停めた駐車場はこのフレーム外のすぐ右側に位置する。写っているのは右側が足利学校跡、左側が足利氏宅跡(鑁阿寺)である。すっかり住宅街に埋もれた中、ぽっかりとその一角だけが時間を止めているようだった。

写真で見るとわかるように、足利学校、足利氏宅跡(鑁阿寺)ともほぼ四角形の敷地に塀と堀が巡らせてある。出入口は東西南北に1カ所ずつ(足利学校の方は敷地が削られて南側の入り口のみが生きている)。これは鎌倉時代の武家屋敷の典型的な造りで、外敵から攻められたときは簡易的な城として機能するようになっている。のちに登場する戦国時代の豪壮な城も、もとを辿ればこういう武家屋敷から発展したものだ。




■足利学校を見る




そんな訳でさっそく足利学校跡を訪れてみよう。

駐車場側から歩いていくとR293を渡る歩道橋の上が絶好の撮影ポイントになっていて、近代然とした町並みに突如として表れる中世的な建物群がおもしろい。これが歴史の教科書にも出てくる "日本最古の学校" とされる施設である。

ただし 「最古の」 というくだりには多少の注釈が必要かもしれない。古代の教育機関としては長らく仏教寺院がその役割を担ってきたし、また貴族の子弟向けには律令制の下で大学寮、国学(※)などの機関が存在した。しかしこれらは官僚育成機関であって一般に開かれたものとは言えず、定員も少なかった。身分に関係なく広く民間からも学生を受け入れたという点に於いては、この足利学校がほぼ最古にして最大ものと言っていい。

※国学とは官吏登用のために律令国毎に設置が定められた教育機関。ただし律令制の崩壊に伴って平安末期までには殆んどが消滅した。




驚くべきことに、足利学校においては学費は無料であったという。学生は基本的に住込みで、食料は学校所有の菜園で野菜類を栽培して賄った。贅沢さえ言わなければ身一つでやってきて衣食住つきで学習できた訳で、実に太っ腹というか、至れり尽くせりな学校だったのである。

現代の私大のようにナントカ協力費とか施設拡充費とかいろいろ名目をつけて資金集めをしないで済んだのは、もちろん領主の足利氏(のちに北条氏に代わる)がパトロンとして協力したというのも大きいだろうけれど、有力寺院と同じように足利学校もその運営を賄えるだけの領地を持ち、その収穫物で経営を賄えたという事情がある。

そのピークは戦国時代の後半で、北条氏が関東一円を支配下に置いた頃であった。その後の徳川時代になると途端に貧乏臭くなってしまうのだが、それでも学費を取ったという記録は見当たらないというから、教育機関としての志はなかなか立派だったようである。




さて歩道橋を渡って敷地に入ろうとしたが…あれれ? 入り口がない…?( ̄▽ ̄)
…と、思いきや地図をみると正門は南端側なのでしばらく歩かなければならないらしいw うーむ。

周辺を見渡せば、もう12月ということもあり木々もすっかり葉を落としている。堀に沿って植えられた楓だけが、かろうじて紅葉の痕跡を留めていた。もうあと2週間ばかり早く訪れていたら、きっと美しい紅葉の写真が撮れたことだろうに、惜しいことをしたな。




■入徳門




さてぐるりと回って敷地南端までやってきた。ここが足利学校の正式な入り口=入徳門である。"入徳" という少々特異な名称は、ここが儒学に重きをおく学府であることを示している。

いまさら説明する必要もないとは思うけれど、儒学とは古代中国の孔子(BC551~479)の唱えた思想である。「孔子って誰?」 …というゆとり世代の方は、第一宇宙速度で豆腐の角に頭をぶつけて根性を叩きなおした後に、もう一度教科書を読み直そう。




ちなみに孔子の出身は春秋戦国時代の魯国(BC1055-BC249)の昌平郷というところで、実はこの足利学校のある場所はやはり孔子にちなんで昌平町と称している。足利学校は何度かの盛衰を繰り返して現在ではその南側が市街化されてしまっており、もしかするとこの昌平町の領域と旧:足利学校敷地が被るのかもしれないが…筆者的にはちょっと確証まではもてない。




さて窓口で入館料を支払うと、チケットには 「足利学校入学証」 とあった(^^;) …かなか楽しいノリだなw

<つづく>