2009.05.09 喜連川の歴史を歩く(その1)




喜連川の戦国期~江戸時代を巡ってドライブして参りましたヽ(・∀・)ノ



書店で面白い本を見つけた。「日本一小さな大大名」 (山本昌也:グラフ社) という喜連川藩に関する書籍で、大名の定義が "1万石以上" とされていた江戸時代にわずか五千石で独立した藩を営み、しかも参勤交代などの役務を免除されていたetc…のユニークな在りようについて書かれている。喜連川というと筆者もマイナーなイメージしかもっていなかったのだけれど、これはなかなか面白い内容なのである。そんな訳で、改めて喜連川の周辺を自分の目で確かめてみようと思い立ったのであった。




この書籍、著者の山本氏はなかなか緻密な取材をしており文体も詠みやすい。…が、ここで筆者がそれをそのまま二番煎じをしてもつまらないので、詳細は書店で購入のうえ読んでいただくとして、ここでは現代に残るその雰囲気のようなものをカメラで拾ってみたいと思う。

のっけからタネを明かしてしまえば、喜連川藩が特別な地位を得たのは城主の血統が足利将軍家につながる由緒正しい家柄で、それが関白秀吉、征夷大将軍家康に一目置かれたことに始まる。ただしそこに至る過程には少々ややこしい部分もある。そのあたりは追々紹介していきたい。




■喜連川への道




さてこの日、ちょうど昼頃に用事があって自宅にいなければならなかったので、午前中は深山湖に突撃、そして午後は喜連川…とかなり強硬スケジュールでドライブしている。そんな訳で本レポートも突撃半日レポートになってしまったことを予めお詫びしておきたい(^^;)

さてここはいつもの起点=那須塩原駅である。沿道にはサツキやツツジが咲き、今からでも新緑を満喫しにいらっしゃい感 (なんだそりゃ) が漂っている。しかしここは巻川用水や那須疎水が開通する以前は水がなく、ほとんど人の住まないところだった。松尾芭蕉が奥の細道で通った那須野ヶ原も、ここより遥かに南東側の大田原付近のことである(それでも周辺は茫漠とした原っぱで、芭蕉は道に迷いそうになっている)。




駅から南下して大田原市域に入ると間もなく地中から染み出すように水が湧きはじめる。那須野にあっては、河川に水の湧き出すここから下流域が歴史の舞台である。




湧き出した水の流れを橋の上から見下ろすと、魚影はえらく濃い。




大田原市街地を過ぎてからは、佐久山を経由して r114 でゆるゆると南下していく。これはほぼ旧奥州街道に相当するルートである。途中で青々とした麦畑を見る。風になびいている穂が某有名麦芽飲料のCMみたいだ。




佐久山を越えると地形は山がちになり、耕作地もまばらになっていく。道路のアップダウンも激しくなり、クルマで走っているとあまり感じないのだけれど、自転車で走ると坂の連続を体感できるようになる。

実はこの坂の連続が喜連川を知る上で重要なのだが、それには地形図をみるのが手っ取り早い。




■ところで喜連川とは…



さてここで喜連川の立地について簡単に解説しておきたい。喜連川は大田原~宇都宮間をほぼ等分する位置にある小さな城下町である。ここに最初に城を築いたのは今から820年あまり昔の武将、塩谷惟広であった。家系としては宇都宮氏の支流にあたり、源平合戦に於いては宇都宮朝綱と共に頼朝軍に加わっている。義経に従って出陣した惟広は文治元年(1185)、一ノ谷、屋島の合戦で功を上げ、頼朝から恩賞として塩谷郷(喜連川を含む)を賜った。その翌年、惟広は要害の地である喜連川を選び堅固な山城を構築する。これが現在の喜連川城(大蔵ヶ崎城)の原型である。

この付近の地形は北西~南東方向に延びる細長い山地と河川が幾重にも重なっている。山の高さはせいぜい100mほどだが長さは40kmにも亘(わた)り、ここを境界として南北の平地はゆるやかに分断されている。平安時代から安土桃山時代まで、おおまかに言ってこの天然の長城の北側が那須氏の所領(≒旧・那須国)、南側が宇都宮氏の所領であった。



戦国時代、下野国で最大勢力を誇った宇都宮氏は北部の支配を狙って度々那須氏領に侵攻を企てたが、なかなかこの天然土塁を突破することが出来なかった。一方で那須氏側は喜連川塩谷氏の取り込みを目論んでいたらしい。

塩谷氏は古くから宇都宮氏に近い家系であったが、現在の矢板市付近を根拠地にした川崎塩谷氏と、喜連川に居を構える喜連川塩谷氏の家系に分かれており、同族ながらしばしば対立があった。時代が下ると喜連川塩谷氏は次第に独自の動きをみせるようになっていき、やがて那須氏と結ぶようになっていく。宇都宮家からみればこれは由々しき事態で、やがてこの喜連川を巡って早乙女坂の戦い(1549)が起こることになる。

ここでは、数ある合戦のうち喜連川で最も有名な早乙女坂の戦いを事例に、まず戦国期の雰囲気を感じてみよう。喜連川藩誕生に至る話は、このあたりから始めたほうがわかりやすいだろう。

※ここでは端折って単純に書いているが、早乙女坂の戦いの背景には佐竹氏や古河公方の勢力も絡んでいたようで、単純に那須氏vs宇都宮氏の局地戦ではなかったらしい(^^;)




■弥五郎坂から戦国期の喜連川を見る




さて話の順番の都合上、いったん喜連川の市街地を素通りして南側の早乙女(五月女)付近にやってきた。鬱蒼と茂る木々に囲まれた峠を抜けるこの道は、旧奥州街道である。もとは早乙女坂と称したこの峠道は、いまでは "弥五郎坂" の通称のほうが定着し地図上の表記もそちらが採用されることが多い。

ここは宇都宮氏と那須氏が戦った古戦場のうち、最大の激戦地と言われている。




時は天文18年(1549)9月17日、ここで那須氏 vs 宇都宮氏の最大規模の戦闘が行われた。攻めるは宇都宮尚綱、守るは那須高資/塩谷惟朝の連合軍である。 宇都宮尚綱はこのときの宇都宮氏当主で、自ら2500騎あまりの兵を率いての出陣だった。那須勢に寝返った塩谷惟朝を討ち、そのまま那須領に侵攻する勢いで迫り来る。

迎え撃つ那須/塩谷側は300~500騎の劣勢である。地の利はあるものの早乙女の丘陵を抜かれてしまうともう喜連川城(大蔵ヶ崎城)までは1km足らずであり、喜連川塩谷氏にとってはまさに崖っぷちという状況であった。




数に勝る宇都宮軍に、那須・塩谷軍は伏兵を配して奇襲戦法で応じたらしい。これに動揺した前戦の兵を統制しようと総大将の宇都宮尚綱が高台に駆け上がったとき、那須氏側の伊王野家家臣:鮎瀬弥五郎実光の放った矢が尚綱の胸を射抜いた。尚綱はそのまま絶命し、当主を失った宇都宮軍は総崩れとなって敗退したという。

この戦いののち、喜連川の村人はこの坂を弥五郎坂と呼ぶようになった。




坂の上にはこのとき討たれた宇都宮尚綱を祀ったとされる供養塔が今も残る。街道から7~8mばかり上がると古びた鞘堂(※)があり、鍵などはかかっていないので誰でも見ることが出来る。

※鞘堂(さやどう):社殿や仏塔などを風雨による侵食から守るため、周囲を覆うように建てる建物のこと。



これが供養塔の本体である。言い伝えでは宇都宮尚綱を射殺した鮎瀬弥五郎が恩賞として下賜された賞金で建てたとも言われているが、言い伝えのバリエーションが複数あるのでここでは断定的な表現は避けておこう。




早乙女(五月女)坂の戦いに限らず、喜連川を巡る宇都宮/那須氏の攻防はこの後も何度か繰り返されていくのだが、その間ずっと喜連川は戦略上の要衝でありつづけた。その後の薄葉の戦いでは一時期城を宇都宮軍に奪われたりするのだが、ほぼ一貫して喜連川塩谷氏の居城として存続した。その間、初代惟広から数えて17代、およそ400年である。

…しかし戦国の世も末期を迎えると、喜連川塩谷氏は翻弄されていく。やがて武蔵国から強大化した北条氏が攻めあがってきたことで、状況が大きく変わったからである。




■小田原の役、そして塩谷氏の滅亡




ここで、少しスケールアップして関東一円の状況をみてみよう。この図は↑1590年、秀吉による小田原攻め直前の北条氏の勢力範囲である(かなり大雑把 ^^;)。下野国は小山、壬生、佐野、日光山などが北条の配下となり、那須勢も対宇都宮の立場から北条と結んでいる。

ここに天正18年(1590)、豊臣秀吉が登場する。いわゆる小田原の役である。西国平定を済ませ天下統一の仕上げをするために諸大名に号令、20万の大軍で小田原を包囲したのであったが、このとき下野国内の各勢力では対応が分かれた。日光山は北条方に付いて秀吉と対立、宇都宮氏は秀吉の元に早々に駆けつけ、那須氏の中では大田原氏、大関氏が参陣した。一方で那須宗家は遅参し、喜連川塩谷家は参陣しなかった

戦況については長くなるので省略するが、3ヶ月におよぶ篭城戦ののち北条氏は滅亡する。その結果、北条方についた日光山は秀吉の怒りを買い所領没収、遅参の那須宗家は改易となった。宇都宮家、大田原家、大関家など早々に参陣した家は所領安堵となった。

さて今回のテーマである喜連川の城主:塩谷惟久はというと・・・これが非常にカッコ悪い。なんと秀吉の怒りを恐れるあまり、城を捨てて逃亡してしまったのである。後には主人を失った家臣団と、若き奥方:島子が残された。




小田原攻めの戦後処理は、宇都宮で行われた。いわゆる "宇都宮仕置" である。奥州の伊達正宗に対する処分が有名であるが、城主が逃亡した喜連川塩谷家に対しても秀吉の沙汰が下った。このとき秀吉の前に出頭したのは残された夫人の島子である。…が、この若奥様が美人であったことがミラクルを生む。

結論からいえば喜連川塩谷氏は断絶である。しかし好色?の秀吉はこの美貌の夫人を押し倒(中略)、自らの側室として抱え、旧・喜連川領3800石を "化粧料" の名目で与えた。島子は秀吉に願い出て、これを事実上の滅亡状態にあった実家の家系に譲るのだが…それが足利尊氏に祖を持つ名門、足利家であった。

秀吉が島子を側室に迎えたのには、容姿端麗のほかにこの血統の良さもあったと言われている。足軽出身の秀吉は名門とか権威のあるものを傘下に収めることを好み、自らの権威付けに利用もしたが、単にコレクターとなっただけではなく大事にもした。

当時の足利家は古河公方系、小弓公方系に分裂しそれぞれ滅亡寸前であったが、島子と秀吉の計らいにより古河公方系の足利氏姫と小弓公方系の足利国朝が婚姻し、分裂状態を解消したうえでの再興となった。氏姫、国朝にはそれぞれ若干の加増があった。




こうして、長らく塩谷家の居城だった喜連川大蔵ヶ崎城に、名門足利家が入城することとなる。

(多少の補足をすると、喜連川に入った足利家は足利将軍の直系ではなく、足利尊氏の次男:基氏の家系である。基氏は将軍代理としての地位を持ち、鎌倉公方として関東10ヶ国を治めた。この公方様は一般呼称として 「鎌倉御所」 と呼ばれていた。のちにこれが古河に本拠地を移して古河公方となり、さらに小弓公方が分かれた…というのが秀吉登場までの流れである)

さて歴史談義が長々と続いてしまったが、次はいよいよ喜連川の城下に入って周辺状況を眺めてみることにしよう。

<つづく>