2009.03.27 雪の信越線:長野 善光寺編




…続きです~ヽ(・∀・)ノ

■長野へ




雪の中をやってくる各駅停車の列車。ホームの客は筆者を含めて4人くらいしかいない。R18、上信越自動車道、そしてまもなく完成する北陸新幹線…これらと併走する信越本線は、果たしてこんな乗客数でやっていけるのかな…と人ゴトながら心配になってくる(^^;)




さて妙高高原駅を過ぎるとすぐに長野県である。時間があれば黒姫で降りて雪の野尻湖を見たいところだが、今回は善光寺を優先したいので、ここはパスして長野を目指す(…う~ん、もったいない)。

直江津~長野の区間で最も標高が高いのがこの妙高高原から野尻湖の付近で、そこを越えるとあとは善光寺平まで下り坂が続く。海抜0mの直江津から同700mの妙高高原まで一気に駆け上がり、その後は350m前後の善光寺平に降りてくるルートだ。




余談だが信越本線のルートに沿って断面図を書いてみると、明治の鉄道屋さんの偉業がよく分かる。上空からみるとクネクネと曲がりくねってみえる路線も、実は常にほぼ一定の勾配になるようにルートが決められていて、ちゃんと合理性のある構造になっているのだ。

前回でちょこっと触れたが、日本の近代測量は明治10年代が黎明期(※)で、日本地図の最初の三角測量の基準=相模野基線が定まったのが明治15年である。それから僅か数年で妙高越えの鉄道路線を定め実際に鉄道を通したわけで、覚えたての技術を即実践で使っているところに明治人の気概を感じる。

※日本には伊能忠敬(1745-1818)による精密測量の実績があるが、主に海岸線と主要河川の形状を確定したもので標高の測定はされなかった。よって山脈地形の記載はほとんどない。これはスポンサーであった江戸幕府の関心事が欧米列強からの沿岸防衛に向いており、まず全国の海岸地形の把握が重視されたためと言われている。




さて黒姫あたりまでは雪が見られたものの、妙高高原を過ぎて長野県側の雪は少なかった。日本海側の雪雲は妙高山を越える段階で大量の雪を降らせるが、そこを越えて長野盆地側に抜けてきた頃にはすっかり水分を失って新潟県側ほどの降雪はみられなくなるという。山国といっても気象条件はさまざまなんだなぁ…( ̄▽ ̄)




さて雪がないと車窓写真もいまいちパッとしないので、途中は省略して長野駅である。




駅には開催から10年以上を経てなおオリンピックのシンボルマークが掲げてあった。これが開催されたお陰で長野新幹線が通ったようなのもので、長野市民にとっては忘れられない大イベントである。…が、さしあたって今回は筆者の興味はそこにはない。既に午後3時に近いので、早々に善光寺にアタックしておこう。

※長野新幹線の計画はオリンピック開催決定前から存在したが、いわゆるミニ新幹線としてのもので、オリンピック開催が決定したことで全線フル規格での建設となったらしい。




■善光寺




オリンピックの記憶がまだ新しいせいか、長野市を近代都市と思っている人もいるかもしれない。しかしその本質はどこまで行っても宗教都市(=門前町)である。

地図をみればよく分かるが、まず善光寺とその参道が平安京や平城京でいう内裏と朱雀大路の位置にあり、不完全ながらも条坊(東西南北に走る碁盤の目状の区画)の痕跡が伺える。最初から都市を築こうとしたのか、単に参道にあわせて後付で区画が増殖したのか、筆者は不勉強なのでよくわからない。




参道を進むと、ちょうど梅の花が満開であった。長野駅の付近は普通の町並みである長野市の景色も、善光寺が近づくと白壁と瓦の景観になってくる。これもローカルの有力商人が軒を並べていた名残だろうか(´・ω・`)




ここで少し善光寺の沿革について話しておこう。善光寺の創建は飛鳥時代、皇極天皇元年(629)まで遡る。はじめ推古天皇10年(602年)の頃、信州の住人本多善光なる人物が難波(現在の大阪)で一光三尊阿弥陀如来像を入手した。どのような経緯で入手したのかは良く分からないが、善光寺縁起によると仏教受容を巡って蘇我氏/物部氏が争った際に物部氏によって投棄されたものを拾ったことになっている。縁起ではこれを欽明天皇の頃(552)に百済の聖明王から伝えられた日本最初の仏像としている。

本多善光は国司の付人として都を往復していた人物といわれ、仏僧ではなく一介の民間人である。北信濃地方の豪族だった可能性が高そうだが、詳細はよくわかっていない。ただし602年頃といえば大和朝廷の支配域はようやく中部~関東に及んだ頃で、行政上の信濃国はまだ成立しておらず、国司という身分も大化の改新(645)以降のものなので、本多善光のエピソードは善光寺縁起よりやや時代が下っている可能性がある。

一方、仏像の故郷=百済は大化の改新の15年後、660年に新羅-唐連合の攻撃を受け滅亡しているので、このときに日本にやってきた大量の亡命者(仏僧も数百名いた)が持ち込んだ仏像の一体と考えるのが自然かもしれない。(それでも由緒としては十分に古い)




その本多善光の入手した仏像は信濃国でまず彼の自宅(現在の飯田市付近)に祀られたとされるが、のちにその存在が都に伝わると、皇極天皇(女帝:594-661)より寺院を建立して正式に祀るようにとの勅を賜ったという。そこで現在の長野市に建立(629)されたのが現在の善光寺と言われる。いわゆる官寺ではなく私寺としての建立であり、名前は創健者である本多善光の名に由来している。この時代に個人で寺院を建てるというのは相当に裕福でなければ出来ないことなので、本多善光はそれなりの有力者ではあったようだ。

善光寺公式HPの記述では、平安後期に編集された伊呂波字類抄(作:橘忠兼/1180年頃)に、8世紀中頃(奈良時代)に善光寺の御本尊が日本最古の霊仏として中央にも知られていたことを示す記事があるとの記載がある。筆者の調査ではその原文までたどり着かなかったので聞いたとおりに解釈するしかないが、欽明期:仏教公伝時の仏像かどうかは断定できないまでも、奈良時代には既に知られていた最古期の渡来仏像であった可能性は高そうだ。




歩いていくと仁王門が見えてきた。みると額に "定額山" の山号がみえる。実は善光寺にはこの他に南命山、北空山、不捨山の山号があり、門によって使い分けられているという。寺の名前も善光寺の他に無量寿寺、雲上寺、浄土寺の名前をもち、参拝者の都合に合わせていずれかの門から入れるようになっている。ご都合主義といってはミもフタもないが、宗派的には非常にコンビニエンス?な構造である。

なぜこんな状態になっているかというと、善光寺は仏教が諸派に分派していく以前の成立で、百済渡来の本尊(伝:仏教公伝時の仏像)を擁しているためである。よって日本中に散らばる 「○○宗」 を名乗るすべての諸派仏教の源流という立場になり、いずれの会派にも属さない=どの宗派の信徒でも参拝が可能という特異的な地位になるらしい。特に天台宗と浄土宗においては別格本山、つまり総元締め=本山に準じる地位の寺院として扱われている。




仁王門の周辺には、重厚な瓦の宿坊が並んでいる。かつては僧侶や賓客の滞在する施設であったが、最近は一般の参拝者にも開放されている。寺院本体と並んで古い歴史をもつ建築群である。




重厚な瓦葺の宿坊と梅の花…これもまた風流なりヽ(´ー`)ノ




宿坊街のなかではおそらく最も有名なのがこの堂照坊だろう。鎌倉時代に親鸞が滞在したと伝えられる坊で、京から直江津に流され(1207年)、のちに常陸国に布教に向かう途上の逗留であった。近くには良寛の詩碑もあり、やはり旅の途中で付近の坊のいずれかに逗留したらしい。




さらに進んで山門前。現在ではすっかり門前商店街の様相になっているが、実はここが本来本堂のあった場所である。



境内MAPをみると、現在は商店街となっている仲見世(中の店の意?)と書いてある付近の周囲に "○○院" と称する施設が集中しているのがわかる。現在の善光寺本堂は江戸時代に建築されたものだが、新・本堂を建てるにあたって敷地を奥側に拡張し、新たに山門(三門)をつくったことがわかる。…ということは、現在仁王門と呼ばれているのが室町以前の本来の山門であって、宿坊はそのすぐ南隣に位置していたという位置関係になるようだ。



本堂移転後に残された周囲の施設は、空き地となった旧・本堂跡に進出してきた商店街に埋もれたような格好になっている。仏教の聖地の割になんだか商売根性丸出しのような気がしないでもないけれど、本堂を新築するにあたって有力商人に資金協力を求めた…という経済関係があった場合には、こうなる可能性は大いにありえる。坊さんだって霞を食って生きている訳ではないので、資金の捻出には頭を悩ませたことだろう。




仲見世のほ中央、参道脇の延命地蔵のところに解説板があり、ここに創建から元禄13年(1700)まで本堂があった旨の記載がみえる。ざっと千年以上、ここに建っていた訳か…気の遠くなるような時間だな。

ただし元禄13年(1700)まで本堂があったというのは、多少注釈の必要のある物言いである。というのも建物本体は江戸時代初期、寛永19年(1642)に火災により焼失し、以後60年以上本堂がない状態が続いたためだ。元禄年間になって現在の本堂の位置に場所を移して再建されているのである。




さて山門をくぐり抜け、いよいよ到達した本堂である。拡張した敷地にどどーんと建てられた、東日本では最大の木造建築だ。官寺ではないので一般から浄財を募っての再建であり、さきに述べた本堂跡地の商店街転用もその一環だったのかもしれない。

見上げると、雪がちらほらと降りはじめていた。新潟県側のような重いボタ雪ではなく、割とサラサラとした質感の雪だ。処変われば風情も変わるものだなぁ。

…それはともかく、本堂に上がってみよう。




中に入って撮影はできないので、外から目の届くところだけ撮ってみる。筆者は仏具にはさっぱり明るくないのだが、飛鳥時代創建ということもあってか、楽太鼓の火焔の装飾の造作には白鳳文化の余韻みたいなものがありそうだ(^^;)




さてここから先は撮影できないのでパンフレットで代用しよう。順路の通りに行くとこの↑内陣というところでご本尊にお参りしてから善光寺名物=戒壇めぐりということになる。

靴を脱いで座敷に上がろうとしたところで、ちょうど入ってきた団体さんと一緒になってしまった。見るとどうやらツアー主催者がコネをもっているらしく、わざわざ坊さんが出てきて解説を始めてくれた。これは紛れ込んでいるとなにかと便利でよろしい。

団体さんはいかにも善男善女らしく、坊さんが 「あー、ここに居並ぶ仏さまは皆さん雲にお乗りされてますね。でもひとつだけ誰も乗っていない雲がありますね。これはですね、皆さんを極楽往生させてくれる為に空いているんですね。大~変っ、ありがたいですね。」 などと解説すると 「おお~」 と声をあげている。・・・が、後でパンフレットを見たら全部書いてある話だった(笑)

途中から 「では一緒にお経を上げましょう」 という展開になり、中座もしにくい雰囲気なので筆者は適当に口をパクパクしていたが、善男善女の皆さん経典など諳(そら)んじているようで、何も見ないで朗々と唱えていた。…いったいナニモノなんですか、あなた達は?(^^;)




適度なところでお経イベント後の人ごみから離脱して、いままで拝んでいた祭壇をよく見る。…ん? なんだこりゃ。

知らない人がこれを見ると非常な違和感を感じるだろう。焼香台の奥=中央真正面には、なんとご本尊の仏像ではなく、寺を開いた本多善光ファミリーの像が安置されているのである(@▽@) 等身大よりも一回り大きい木坐像で、中央が本多善光、右が婦人の弥生、左が息子の善佐のようだ。それにしても、仏さまを差し置いて自分が真ん中に座るとは、自意識過剰も大概にしろとゆーか、お前ら金正日か池田大作かとツッコミを入れずにはいられない。

肝心のご本尊はというと、祭壇の左側の一角に御簾が下がっていてその奥に鎮座ましましているという。ただしこのご本尊は "絶対秘仏" となっていて、一般はおろか寺の住職ですら見ることは許されていない。そのかわり、その姿をコピーした前立ち本尊という仏像が作られており、それが七年に一度の御開帳で公開されている。今年の御開帳で公開されるのもこのコピー像である。



善光寺のご本尊は 「善光寺式三尊像」 として様式化され、鎌倉~室町時代のころ盛んにコピー(というか模倣)されたため、それを見ることで像の概要を知ることが出来る。中央に阿弥陀如来、左右に観音菩薩、勢至菩薩を配したもので善光寺公式HPの挿絵を見るとタマネギ型の光背を背負っている。大きさは一尺五寸(約45cm)という。

この三尊形式は飛鳥時代の頃の朝鮮でよく好まれた形式らしい。同時期のものとしては法隆寺の釈迦三尊像も同じ系列で、これも百済からの渡来系仏師の作である。本多善光ファミリーの像が3名で構成されているも、もしかするとこの形式に倣ったものなのかもしれない。




さてそんな訳で、いよいよ善光寺に来たらコレをやらねば…という御戒壇巡りに挑戦してみた。明かりの無い真っ暗な回廊(ご本尊と善光像の真下にある)を巡って、"極楽の錠前" を探り当てるというものだ。めでたく探り当てることが出来ると御本尊と結縁(けちえん)したことになるという。

ここで言う戒壇とはもちろん鑑真の開いた仏僧になるための戒壇ではなく、"契約の場" の意でそれにあやかって命名されたものだ。日本仏教史に戒壇が登場するのは奈良時代後期、孝謙天皇の頃であり、善光寺創立の頃にはその概念はない。本堂は火災で何度か焼失しているので、いずれかの時代の再建時に信者向けにこのような施設が作られたのだろう。筆者的にはこの種のアミューズメント?的な仕掛けには元禄期以降の江戸時代の雰囲気を感じてしまうので、1706年の再建時(=現在の本堂)に作られた比較的新しい施設ではないかと思うのだが…もちろん確証はない(^^;)

暗闇の中の状況は、あまり詳しく書いてしまうとお楽しみ?がなくなってしまうので省略するけれども、結論だけ述べると一応筆者は極楽往生できるらしい(^^;)。ただしまだまだ雲のリムジンに乗る予定は無いので、チケットは臨終場所発極楽行きの正規OPEN航空券として頂いておこう。




戒壇巡りから上がって外に出ると、ゴォォン、ゴォォ~ン…と鐘がなり、追い出しタイムとなった。

時計を見るとまだ午後4時なのだが、長野市の生活サイクルは超朝方の "善光寺タイム" で巡っており、もうここで一日は終わりなのである。




商店街は既にやる気は無く(^^;)、すっかり閉まっていた。

これは朝のお勤め (→朝事という) に参加する信徒が日の出前から参拝するのに合せて店を開くためだ。 この朝事は365日欠かさず行われており、自然と商店街の営業サイクルもそちらに移ってしまったらしい。 そんな訳で、一般に田舎の夜は早いものだが長野だけはその中でも別格の早期弊店具合なのである。 オリンピックの頃には夜更かしのガイジンさんは絶対に困ったと思うのだが、どうなのだろう。

そのまま駅まで歩いてみた。もっと時間があれば面白く見られそうな場所は沢山あるのだが…さすがにこれ以上の寄り道は難しい。ちょっと名残惜しい気もするが、そろそろ帰路に就こう。




■帰路




長野駅からは新幹線を乗り継いで、便利ではあるけれど味気ない帰路となった。写真は軽井沢付近である。一応スキー場はあるのだが雪は少なく人口雪でコースを作っているらしい。山国といっても日本海側からずーっと抜けてくるとその表情は驚くほど変わるものだ。

出来ることなら一駅ごとにじっくりと巡ってみたい列島横断の旅だけれど、そんな自由が手に入るのはきっと定年退職後のことで、暇はあってもカネはない…なんてことになりそうだな。

今はこの一期一会のような駆け抜ける風景が、きっと筆者にとっての長野の記憶になっていくのだろうな…などと、そんなことを思ってみた。

<完>




■あとがき


いやー、案外簡単に書けるかな…と思っていたロードムービーのようなレポートですが、ひとつひとつの見所が独立していて関連性が乏しいので何とも難しかったです。そんなわけでわずか1日で駆け抜けた割に分割レポート風になってしまいました。

さて信越線というと新幹線が開通する直前、現役だった碓氷峠の区間(軽井沢~横川:現在は廃線)を一度だけ列車で通ったことがあります。66.7‰(→水平10kmで高低差が667m)という急勾配を時速30kmほどの徐行運転でウンウンと登っていくのはさすが日本最大の急勾配区間といった趣で、さあ山国にやってきたぞ感 (なんだそりゃ) が大いに盛り上がったものでした。当時は横川駅の釜飯売りも健在で、結局筆者は食事時ではなかったために買わなかったのですが、たった十数秒の時間であっても出発する列車に深々と頭を垂れる駅弁売りの方々の姿はいまだに記憶に残っています。今思えばあれが本当に最初で最後の峠の風景だった訳ですが、しかしあの旅情はもう時代の彼方に去ってしまいました。1997年、横川-軽井沢区間は長野新幹線開通により廃止されてしまったのです。




実は今回レポートした信越本線の長野 ~直江津区間も、北陸新幹線開通によって碓氷峠と同じ運命を辿る可能性がああります。JRは北陸新幹線開通後にこの路線を経営する意思はなく、既にJRから切り離し第三セクター化することが決定しているのです。過去の類似事例から見ても、競合する道路/新幹線事情から見ても、分離後のこの路線が黒字を維持できる可能性は薄いと思わざるを得ません。

信越線は関東と上越を直結する日本で最初の鉄道路線として誕生しながら、後からやってきた上越線、ほくほく線、上越新幹線に幹線としての地位を譲り、さらにR18、上信越自動車道と平行して自動車との競争にさらされ、すっかり斜陽ローカル線となってしまいました。今回のレポートが筆者的に最後の妙高路線にならなきゃいいな…と思いつつ、今のこの地域の姿を写真に残してみたかった次第です。

<完>